36 〈ボーイズ〉新開のり子

 新開のり子は1972年、東京都港区生まれ。

 小さいころから新聞に落書きしたりするのが好きでした。広告の写真の男性を女性の顔にするとか、髪型を聖飢魔IIにしちゃうとか。学校でも、友だちの似顔絵を描いて受けたりして。でもその程度です。

 小学校高学年から中学生まで、父の希望で劇団いろはに所属してましたが、オーディションには落ち続け、出演はエキストラのみ。まったく芽が出ず3年間で退団しました。

 高校を卒業したあと、デザイン専門学校のヴァンタンに入学して、1年目はグラフィックキャラクター、そのあとエディトリアル・デザインを専攻するんですが、それもデザインで身を立てる!みたいな志ではなくて、なんか楽しそうだな~くらいの気持ちだったんです。

 19歳のときに誘拐されたことがあって……自宅の近所でクルマに乗った男性に声をかけられて、すごく巧みにシートに座らせられてそのまま発進。夜中に延々ドライブして湘南まで連れていかれて、さらに高速道路に乗って御殿場あたりのサービスエリアで、そのひとが仮眠した隙にクルマを降りて逃げ出したんです。駐車中のクルマの窓を叩いて「助けてください!」って懇願したんですけどだれも助けてくれなくて、やむを得ず高速の反対車線の道路端を全力疾走。通りかかったクルマに乗せてもらい、朝になって無事に家にたどり着きました。さいわいなにもされなかったけれど、それから外に出るのが怖くて1年間近く引きこもっていたこともありました。小さいころから見知らぬおじさんやお兄さんに声をかけられ、怖い思いを幾度も経験してきたんです。

 けっきょく学校時代は勉強より遊んでるほうが忙しくて……技術はぜんぜん身につかなくて、絵もヘタなままでした。学んだことを活かせずに、普通の会社に就職したんです。最初はやっぱり働くならデザイン系かなと思って、いちどバッグとか靴をデザインする会社を受けたんですが、面接で「馬と神社の絵を描いてください」と言われて、しかたなく描いたら呆れられちゃって。面接官に「あなたこれ、自分で何点だと思いますか」って聞かれて、ほんとは零点だと思ったけど「20点です……」「ですよね、ハイもうお帰りください」って。それから絵を描くのがほんとうにイヤになっちゃった。私に描かれる絵が気の毒になったというか。

 就職したのは求人誌の会社で事務的な仕事だったんですけど、もちろんおもしろくはないので……実は私、これまで何十社もいろんな会社を転々としてるんです。最初のうちは転職も前向きに「次はこれをやってみよう!」とか思うんですけど、ちょっとやって2週間で辞めちゃうとか。あるていど、1週間くらいは我慢するけど(笑)。

 転職の原因は人間関係でこころが傷んだり、セクハラやパワハラもあったり。ま、いちおう次を見つけてから辞めるんですけど。けっきょく「やだ!」って思うと、どんどん次に行きたくなるんですね。そのころはいまより就職状況も楽だったろうし。それからいちど「そろそろ腰を落ち着けんと」と思って、ある会社に10年くらいいて、それからいまの会社が7年くらい続いてます。ふつうの事務職ですけど。

 いまみたいに絵を描くようになったきっかけは、5年前の宮本三郎のデッサン大賞展です(先週号参照:2017年第4回 宮本三郎記念デッサン大賞で鴻池朋子賞を受賞)。応募したきっかけは姉から「世田谷美術館でコンペがあるよ」って教えられたんですが、絵を描くのは子どものころのイタズラ書き以来で……あと就活の面接の「馬と神社」もあったけど(笑)。なにを描いたらいいかもまったくわからなかったときに、お母さんが犬を抱いてる写真があって、「あ、これは死ぬまで目に焼き付けておかないと」と思いついて、これを描こうとなったんです。

 そのとき出したのは2枚で、ひとつが母と犬を描いたもの、もうひとつが父の絵でした。それで母のほうが受賞して、「え~~~、これが!!!」と自分がまずびっくりしました。初めての表舞台ですし、記念品もいただいて、なんだか自分のことじゃないような。公募展にはサイズも重要らしいのに、なんにも知らなくて画用紙も手元にあった小さいのに描いただけだったり。受かるなんて思ってもみなかったから。落ちたひとが授賞式でけっこう怒ってたり、ちょっと嫌味を言ってくるひともいて「すいません、すいません」って謝ったりして……でもこの受賞をお守りにして、これからイヤなことがあっても我慢しようと思ったんです。

 それから絵を描きだして、翌年に自由が丘の小さな画廊で母・姉・わたし3人の「女系家族展」第1回を開くんです。姉から家族展やろうと言われて、もうほんとに汗だらだらで、毎日冷や汗かいて。姉はプロの現代美術家だし、母も絵を習い始めて30年とかで作品もたくさんあったんですが、私はなにもかも初めてだったので。展覧会の前は仕事が終わって家に帰ったあと、たとえば8時から12時までとか時間を決めて、必死に描いてましたね。大変だったけど、なんだか不思議な感覚でもあって。それまで母と姉の制作をずっと見ていたのに刺激はまったく受けてなくて、「あ~描いてるな~」くらいの感じだったから。

 それから2019年には世田谷美術館区民ギャラリーで「女系家族 パート2」、2020年には第1回女系家族展と同じDIGINNER GALLERYで、初個展「カオス ドローイング」を開かせてもらったんです。

 「カオス・ドローイング」の展示の大半は女系家族展で出した作品でしたが、作品数が足りなかったので、急いでネコとか、カメの絵を描きました。カメは前に飼ってたんですが、描いてるうちに2匹がくっついちゃって。それでギャラリーのひとに「すいません描き直します」って言ったら、「もういいですこれで」って(笑)。あとから見るとけっこう変なところがある絵がたくさんあるので、「家に持って帰って直します」って言うんだけど、そのままでいいですって言ってくれるんです。

 そうやって展覧会を重ねるうちに、コンスタントに描き続けなくちゃならないと思うようになって、それでTwitterとInstagramに定期的にアップするのを始めました。SNSに上げてるのはだいたい芸能人、時事ネタ、お亡くなりになったひと。いかに短時間で仕上げるかという練習を兼ねて。いつも描くのが遅くて、ものすごく時間がかかっちゃうので、なるべく早く描くようにこころがけて。だって亡くなって1週間も2週間も経って上げても、しょうがないですし。けっこうむらがあるんですけど、だいたい2日に一枚くらい上げるようにがんばってます。見てもらえてるんだって思うと、気持ちもそうだし、鉛筆にも力が入るし。鉛筆に思いを乗せるというか(笑)。

 描いてるのはずっと鉛筆です。色をつけるも好きなので、ちょっと試してみたんですけど、ほんとうにひどくて、これは……と自分で引いたというか。それからはずっと鉛筆と消しゴムと練り消しだけで。描く題材はたいてい身近な物で、特に基準はないんです。なんかいいな、と思ったものを描くだけ。写真を見て描くのも好きですし。写ってるなかで意外な表情をしているだれかだったり、落ちてる意外な物だったり、だれもいいと思わないものを自分で見つけるのが好きなんですね。

 姉が私に絵を勧めてくれたのは、子どものころに絵が好きだったのを覚えていて「嫌いなひととか、きょうあったイヤなこととか描いてみなよ」って言われて描いてみたら、けっこうおもしろがってくれて、それで宮本三郎賞に応募することになったんですね。姉に言わせると、私の絵はデッサン力とかじゃなくて、本人は見たまま描いてるつもりだけど似てない(笑)。でも部分的に似てる。顔はすごく細かいのに手がてきとうだったりもするし。そういうのがおもしろいんだそうです。

 でも絵を描くようになって、この5年間でほんとに生活一変しました。こんなに熱中したことはいままでなかったから。私、むかしすごく浪費癖があったんです。特に買い物依存症でもブランド物収集でもなかったけど、借金まで抱えるようになっちゃって。それで家族にとっては心配な存在だったんですけど、絵を描いてるうちに浪費もいつのまにか治まってたし、夜遊びしないで、うちでひとりでずっと絵を描いていられるようになった。ほんとに絵があってよかったな~って家族も安堵してます(笑)。

 あと鉛筆が好きなのは、私の人生と重なってるからなんです。鉛筆って、消して直せるでしょ。時間をかけたらきれいに直せる。日々のこと、いままでのことって、消しても直らないことが私には多かったから。やり直せない人生を消しゴムで消して、やり直してる気持ちなんです。