3階トイレの、向かって左側の個室を飾るおよそ100枚のプリントは、かつて北九州市若松にあったグランドキャバレー・ベラミの従業員寮から発掘された、踊り子や芸人たちの宣材写真(営業用ブロマイド)の複製である。
ほとんどがモノクロームのその写真には、精一杯の笑みやお得意のポーズを決めた、タキシードから半裸まで衣装もさまざまな女たちや男たちがいた。安っぽいプリントから生バンドの音楽や、ホステスの香水や、カクテルやタバコの匂いがムワッと立ち上ってくるようだった。いまから50年も前のことなのに。
寮の物置に残された膨大な備品とともに積み上げられていた段ボールから出てきた写真は、数えてみると約1400枚にのぼった。地元の出版社が写真集にしてくれたらよかったけれど、どこも相手にしてくれなかったので、僕らはその1枚ずつをスキャンし、裏に書かれた名前を写し、全カットを収録したPDFフォーマットの電子書籍をつくることにした(1階ショップで販売中)。それは1960年代の夜へと続くタイムトンネルをくぐり抜ける旅だった。
写真に写っているのは9割方が女たちで、それは時にドレスや着物をまとっていても、ごく少数の歌手や漫才をのぞけば、演じるのが「ヌードダンス」だからである。なかには名前とともに「ピンクヌード」「外人ヌード」「日劇スター」といった特長(?)や、「キャンドルヌード」「夜光ラクガキショー」「金粉ショー」「トップレスシンガー」「コミカルポルノ」「スネークベッドショー」などなど、印象的なキャッチフレーズを冠したダンサーもいて、いったいどんなワザが舞台で繰り広げられていたのか、気になってしかたがない。
なのに彼女や彼たちのことは、数人の歌手以外には、ネットで検索したくらいではひとりもヒットしない。こんなにも無名の踊り子たちがいて、日本各地にあった無数のキャバレーで、音楽と男の視線と酒とタバコの匂いに夜ごと肌をさらし、スポットライトを浴びていたのかと思うと、そしてその記録がまったく残されないままキャバレーとともに消えていったのと思うと、胸が締めつけられるようでもある。ほんのわずかな年月のうちに、僕らはどれほどの記憶を失ってしまったのだろうか。
日本で言う「キャバレー」とはもともと、戦前のカフェー、ダンスホール文化が、終戦直後に入ってきた進駐軍のための大型社交場を皮切りに発展してきたものだった。いま読めるほとんど唯一の「日本キャバレー正史」であり、ハリウッド・グループを率いてキャバレー王と呼ばれた福富太郎さんの『昭和キャバレー秘史』(文春文庫)によれば、「日本女性が占領軍兵士に犯されないように」昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日から、わずか2週間足らずのうちに発足した進駐軍用の慰安施設運営団体RAA(レクリエーション・アミューズメント・アソーシエイション)が、同年中には銀座や品川にキャバレーを開設。翌21年にはRAA所属4店と邦人対象4店、計8店で「東京キャバレー連盟」(後のキャバレー協会)が設立されている。
風営法の規則で、キャバレーは客とホステスが踊れるダンスフロア、生バンドが入っていなくてはならないし、ショーができる空間も必要であり、昭和20年代から30年代になるころには大型化・大箱化が進んでいった。ベラミが開店したのは昭和34(1959)年だが、同じころ東京では赤坂にニューラテンクオーターやミカドといった、キャバレー文化を代表する店が開店しているし、福富さんのハリウッド1号店が新橋に開店したのも昭和35年のこと。警視庁の統計によれば昭和35年9月現在の風俗営業者数は「キャバレー 1,743」とあり、東京だけでキャバレーが1700軒以上も営業していた全盛時代に、ベラミも誕生したのだった。
ドルショック、オイルショックといった経済変動、新風営法の施行、ピンクサロンやディスコ、キャバクラ、カラオケのような遊び場の多様化とともに、キャバレーは昭和40年代から徐々に下降線をたどりはじめ、昭和の風俗史から姿を消していく。ベラミも昭和50年代後半には業績悪化が進み、平成元年ついに閉店を迎えることになった。その前年の昭和63年には赤坂ミカドが閉店、入居していたホテルニュージャパンが昭和57年、死者33人を出す大火災で閉館した後もひっそり営業していたニューラテンクオーターも、ベラミと同じ平成元年に店を閉じている。
キャバレー・ベラミの建物は解体され、今ではその場所に葬儀場が建ち、かつての栄華を思わせるものはなにも残っていない。