7 バンコクの犬

 バンコクのショッピングセンターをぶらぶらしていたら、肖像画屋が並んでる一角に出た。古い写真を持っていくと立派な油絵に描き起こしてもらえる、日本でも昔はよくあった商売だ。狭苦しい店の壁に、おじいさんやおばあさんの顔や、どうでもいい風景を描いた油絵がびっしり掛けてある。その下ではイーゼルをずらりと並べて、若い画家たちが小さな写真を脇に置いて一心に絵筆を振るう。その雰囲気が好きで、このへんをよく散歩していた。

 こういうところはたいてい肖像画や風景画に混じって、ヨーロッパの名画が並べてある。ダヴィンチのモナリザあり、モネ、ダリ、クリムト、意外なところではタマラ・ド・レンピッカなんてのもよく見かける。どれも有名な作品ばかりだが、オリジナルとまるでちがうサイズだったりするもの愛嬌というもの。それにしてもポスターじゃなく手描きの油絵だから、やっぱり独特の存在感がある。

 そのとき僕が立ち寄った店には、ダリやクリムトと並んで、ウォーホルのマリリンとリキテンシュタインがドンと飾られていた。どっちも高さ1メートルぐらいあって、けっこう大作だ。写真や漫画雑誌をもとにウォーホルやリキテンシュタインが描いた絵が、今度はバンコクの街の片隅で、もういちどコピーされて油絵になっている。すごくポップじゃないか。

 感心して眺めていたら、商売熱心な店のお姉さんが、「安くしとくわよ、どう?」と近寄ってきた。いくらなのと聞いたら、どっちも1万円くらいでいいという。すごいね、これが本物だったら、ウォーホルもリキテンシュタインも1億円はするだろう。オリジナルの1万分の1の値段で、コピーが買えるわけだ。ま、そのオリジナルだって、言ってみればモンローの写真や漫画雑誌のコピーなんだし。これってポップアートの精神そのままかも、と思ったら楽しくて1枚買って帰りたくなった。だって値段が1万倍ちがったら、これはもうフェイク=贋作じゃない。なにか別の存在だろう。

 狭い部屋に大きなマリリンは飾りたくないので「ウォーホルで、なんかほかのないの?」と聞いたら、お姉さんは「いまないけど、これ見て選んでちょうだい」と、分厚いウォーホル作品集を取り出してきた。なるほど、店の一角に置かれた本棚に、ダヴィンチだの印象派だの、世界の名画大全集みたいな本がずらりと並んでいる。途中から入ってきたオーストラリア人らしい中年夫婦は、「うーん、これもいいね」なんて言いながら、椅子に座り込んでモネの『睡蓮』の、いろんなヴァージョンを見比べたりしてる(50何億とかで、本物の『睡蓮』を買った地中美術館の人に見せてあげたかった)。

 お姉さんによれば、本の中から好きな作品を選んで、サイズを指定すれば3日間で描いてくれるそうだ。東南アジアにはよく「滞在中にスーツ仕上げます」なんて洋服屋があるけれど、これはその絵画版というところ。壁にはちゃんとサイズごとの値段表も貼ってある。

 ずしりと重いウォーホル大全集の中から、僕は1964年のフラワーを選んで描いてもらうことにした。ウォーホルが手がけたうちでも初期のフラワーで、オリジナルはピッツバーグのウォーホル・ミュージアムにある各辺1メートル以上の大作である。もちろん、そんなのは部屋に飾れないので、30センチ角ぐらいの、すごく小さなキャンバスに描いてもらえないかとお願いしたら、もちろんいいわよとのお答え。で、お値段はと聞くと、ちょっと計算してから「3500円でどう?」と。オリジナルと較べると「万」を取った感じですね。

 3日後に店に行ってみると、ちゃんと「僕のウォーホル」は出来上がっていた。なんたって油絵だから、存在感がちがう。描きたての絵具の香りも、すごくいい感じだ。店では額もその場で作ってくれるのだが、キャンバスをくるくる巻いて持って帰って、東京で額屋さんに木枠を作ってもらい(頼んでおけば、すぐに巻いても絵具がくっつかないようにコーティングを施しておいてくれる)、何食わぬ顔して仕事場の壁に掛けて、打ち合わせに来た人たちの反応を楽しんだりしていた。

 こんな肖像画屋がバンコクにはたくさんあるし、ベトナムでも、ほかの国でもけっこう見た。こういうところで名画のコピーを買うお客さんというのは、もちろん絵画コレクターではない。自分の部屋を模様替えしたり、友達が家を新築したりして、壁がさびしいからなにか飾ろうというていどの人たちだ。アート好きとかじゃなくて、ただ気持ちいい空間に暮らしたいだけの人たちが、MOMAのポスターなんかよりクリムトの油絵を選ぶというのが、僕にはすごく健全に思える。

 店で注文の絵を描いているのはどんな人々かと言えば、これはほとんどの場合、地元の美大の学生だ。バンコクには美大がいくつかあるが、僕が行った店で絵を描いていた若者たちも、全員そうだった。

 現代美術で「自分の作品」なんて作って売って、それで生活していける、あるいはその可能性があるのなんて、ごく一部の先進国だけの話だろう。タイにしたって、コレクターもいなければ画廊もない。現代美術のマーケットそのものが存在しないのだ。

 こういう国でアートを志す若者は、どうやって生きていけばいいのか。その答えのひとつがここにある。つまり肖像画でも風景画でも、名画のコピーでも、注文されたものをきちんと描けるようになって、それで生活の糧を稼ぎながら、時間を見つけてこつこつ自分の作品を作りつづける。アートから離れずに生きていくには、それしか方法がないから。

 僕が会った店の画家たちは20代前半の若さだったが、みんな技術はすごく確かだった。そうでなくては仕事にならないだけの、厳しさがそこにはあった。いま日本の美大生に同じことをやらせてみても、残念だが、とてもこうはいかないだろう。

考えてみれば昔は日本でも、美大生はこうやって生活していたのだった。それがいつごろから、『描けない美大生』が増えたのだろう。現代美術がそうさせたのだとしたら、ずいぶん罪な話だ。だって美大の教育現場では「うまく描くより重要なこと」を教えてるはずなのに、その美大に入学するにはあいかわらず「人よりうまく描くこと」しか要求されていないのだから。美大の学生や大学院生が講師として入試用の予備校に雇われて、古典的な技術を教え込み、晴れて入学したとたんに「アートはそうじゃないから」なんて言われる。そういう手の平返しの状況がまかり通っている日本が、現代美術で生計を立てるのは夢のまた夢のタイとくらべて、どれだけマシだろうか。

 肖像画屋のお姉さんと話していて、いちばんおもしろかったのは値段の決め方だった。ダヴィンチでもモネでもダリでも、作家の名前は値段にいっさい関係ない。値段を決める要素はただふたつ、サイズと……絵具の色数(!)。まあ、これに絵柄の複雑さが加味されもするのだが(ロスコとかモンドリアンとか安いはず)、もともと抽象画は人気がないそうなので、ほとんどの場合、値段はサイズと色数だけで決められる。これこそ絵画(の値付け)の原点だと思ったりして。

 僕が頼んだウォーホルの絵を引き取りに行ったとき、イーゼルの後ろに不思議な犬の絵があったので、なにこれ?と聞いたら、絵師の兄ちゃんいわく「香港の人が来て、愛犬の絵を描いてくれと言って写真を置いていった」と、お座敷犬のスナップ写真を2枚見せてくれた。ただの床じゃおもしろくないから、犬が2匹とも芝生の上にいるよう兄ちゃんが「創作」したのだという。すごくヘンで気に入ったので、まったく同じ絵を同じサイズで描いてもらったのが、いま1階から2階に向かう階段入口にある作品で、30センチ角のウォーホルより高かったのは言うまでもない。