12 (タイトル不詳)樺山久夫

 本館内にはこの作品と縦長の大きなドローイング2点、計3点の樺山久夫による作品が展示されている。いずれも2014年3月31日、世の中的には『笑っていいとも!』が終わった日に佐賀県の片隅でひっそり幕を閉じた嬉野観光秘宝館から救い出された作品である。『笑っていいとも!』は1982(昭和57)年に開始されたが、嬉野に秘宝館が開館したのは1983(昭和58)年。ほぼ同い年で、あちらは日本最大級の長寿番組だったが、こちらは日本最大級の秘宝館だった。

 嬉野茶で有名な佐賀県嬉野温泉の、嬉野武雄観光秘宝館はとりわけ「ハーレム」と題された巨大なインスタレーション空間で知られていて、その解説を館内表示から引用しておくと――「当館は最新のエレクトロニクス技術の粋を集めたセックスワンダーランドとして開館いたしました。エレクトロニクスの最新技術を取り入れた「動き」「音」「光」「映像」をフルに活用し愛、性、エキゾジム、ファンタジックなエロティシズムの数々を立体的パノラマチックに表現した魅惑の施設です。特に光り輝く宮殿内に繰り広げられる王侯貴族美女たちによる、この世の大セックスパノラマコーナーは日本一の規模と内容を誇っています」。

 「ハーレム」は176平方米(53坪)、人形の体数15体、噴水機構8システム、天井高7m、製作費7千万円と、たしかに圧倒的な迫力を誇っていたが、館内にはそこかしこに福岡のエアブラシ・マスター樺山久夫さんの作品が掲げられ、なごやかなお色気ムードを醸し出していた。

 樺山久夫画伯は、エクスペリメンタル・フォークとも呼ぶべき独自の音楽活動で知られる倉地久美夫のお父さんであり、伝説のエアブラシ春画師である。

 樺山久夫の名前を知ったのは、佐賀県の嬉野秘宝館を訪れたときだった。2フロアにわたるたくさんのジオラマのそこかしこに、なんとも風流な、ほとんど一筆書きにも似た筆致のエアブラシ・アートが飾られていた。

 しどけなく横たわり、誇らしげに立ちはだかり……さまざまなバリエーションで描かれた、はだかの女体群。セクシーというより「お色気」という言葉がいちばんよく似合う和風のエロ表現の、それはひとつの完成形だった。そしてそのすべてが樺山久夫という、いちども名前を聞いたことのない画家の手によるものだった。

 樺山久夫、本名倉地久夫は1913(大正2)年生まれ。「画材によるシンナー中毒」に倒れ、平成5年に78歳で亡くなっている。

 もともと福岡県甘木市で自動車の塗装業を営んでいた樺山さんは、塗装に欠かせないエア・コンプレッサーを使って、55歳になったころから絵を描き始めた。だれに教わることもなく、いつのまにか絵の道に入っていったというが、50代になってからの新進画家生活は、決して楽なものではなかったらしい。

 新築住宅のふすま絵を描いたり、砂絵、ガラス絵など新たなメディアに挑戦するアイデアは尽きなかったが、カネには無頓着。「カネはいいけん、みんなが楽しむように……」というのが口ぐせで、画料が物々交換だったことも珍しくなかった。「代金がウィスキー1本、なんてこともあった」といい、家族の食事が「3日くらいインスタントラーメン,それもツケで買ったり、米1升だけ買いに行ったこともあった」そうだが、食べ物にはなかなかこだわっていて、肉が大好物。「ステーキ食わないと手が震える」とよく言っていて、業務用のオーブンを買い込んで鳥の丸焼きを作ったり、人をたくさん呼んでバーベキューをやることもしばしばだった。

 身なりにはかまわず、甘木の自動車学校の社長からもらったツナギばかり着ていたが、人を呼ぶのが大好き。家には始終いろんな人が出入りしていて、来客があると、とにかく「ご飯食べよう」と誘う。「騙されたこともずいぶんありましたが、最後まで無欲のままで、人を泊めたり、楽しませるのが大好きでした」(奥様談)という人柄だった。「女の人が来ると、かならずお尻を触って『いい尻してる』と誉めるんですから」と久美夫さんは笑っていたが、子供のころは「昼はアトリエで寝てるし,夜はコンプレッサでがガーッっと絵を描いてるし」で、ぜんぜん時間帯が合わなかったとか。家を空けることが多かったし、あまり話し込む機会がなかったのが残念だそうだが、岡本太郎が仮想のライバルで、「あいつはハッタリばかりで嫌いだ」と言っていたのを、妙に覚えているという。

 いっさいの美術教育を受けず、まったくの独学でエアブラシを使いこなし、土建屋の友人から借りたアトリエで、また話があれば九州から北海道まで全国どこでも渡り歩いて、芸術家でなく「エロ絵師」と呼ばれることを誇りとした男。明るい照明に照らされた画廊の壁ではなく、秘宝館の裸電球やブラックライトに浮かび上がることを望み、エロ小説の挿絵に起用されることを喜び、見世物に徹したその制作姿勢。依頼主に騙されても笑ってすませ、みずからの画号さえも初め「バカ山」として家族に反対されて樺山にしたという、一生を貫いた諧謔精神。

 「死ぬときまで冗談を言ってました」と想い出を語る家族のほかに、だれもその生涯も、業績も顧みようとしないアウトサイダーとして樺山久夫は生き、忘れられていった。