ラブドール

ラブドールはどんな夢を見るのか

 なにもわからなく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈められているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているのではないが、もう男でなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。
(川端康成『眠れる美女』)

 新潮文庫版の『眠れる美女』には表題作のほかに『片腕』と『散りぬるを』という、変態性欲と殺人をテーマにした濃厚きわまりない耽美3作が収められていて、その解説を三島由紀夫が書いているのだが、『眠れる美女』を彼はこんなふうに評している——

 やがて寝姿の娘の指先が、詳細に描写されると、われわれはすでにこの「自分の存在がみじんも通じない」性的対象の与える一種の安心感の虜になってしまう。江口老人と娘の交渉は、男の性欲の観念性の極致であって、目の前に欲望の対象がいながら、その欲望の対象が意志を以てこちらへ立ち向かってくることを回避し、あくまで実在と観念との一致を企むところに陶酔を見出しているのであるから、相手が眠っていることは理想的な状態であり、自分の存在が相手に通じないことによって、性欲が純粋性欲に止って、相応の感応を前提とする「愛」の浸潤を防ぐことができる。

 もし三島由紀夫がいまでも生きていて、こんなに進化したラブドールを見たら、これはそのままラブドール評になってもおかしくないかもしれない。意志もなく、愛も求めない、純粋性欲の受け皿としての。

 昭和通りに面した、上野の小さな雑居ビル。2階に上がってドアを開けると、そこにはおだやかな灯りに照らされて、数十人の美女が寛いでいた。少女からアイドル系、美熟女まで。あるものは普段着を身につけ、あるものはほとんどなにも身につけず。こちらを向いて、微笑んで。ひっそり黙ったまま……そう、彼女たちは人間ではなく、もっとも精巧に作られた人形=「ラブドール」なのだ。
 台東区上野に本社を置くオリエント工業は、日本でもっとも大手の、もっとも精巧なラブドールの製造販売元である。そしてここは、上野に設けられたオリエント工業のショールームだ。
 オリエント工業は1977年創業という老舗メーカー。創業者であり、いまも第一線で指揮を執る土屋日出夫さんさんは1944(昭和19)年、横浜生まれ。もともと会社勤めから、オトナのおもちゃ屋経営に転じた異色の経歴の持主である。

 僕は横浜の麦田っていうところの生まれで、元町のすぐ近く。元町はオシャレでしょ、麦田はあんまりオシャレじゃないけどね(笑)。
 それで、最初は会社勤めのサラリーマンだったんですけど、新宿でオトナのおもちゃ屋をやってるひとと知りあったんですね。いまはもうないけど、歌舞伎町の区役所通りで。まあ、自分でもああいう柔らかい商売っていうか、そういうのが好きで、ちょっとやってみようかなっていう感じになって。で、横浜をやめて、初めて東京に来たわけです。
 そこは新宿のほかに上野にも店を持ってたので、僕も新宿と上野を行ったり来たりしながら2、3年働いて、それから独立して浅草で自分の店を持つことになったんですね。
 昭和40年代後半から50年ごろの話ですが、そのころがオトナのおもちゃ屋の全盛期でした。でも、(お上が)うるさい時代でもあって。いまはふつうに週刊誌にも出てるけど、当時はアンダーヘアすらとんでもないという時代だから。

 サラリーマンからオトナのおもちゃ屋経営に転身した土屋さんは、まもなく浅草で店を2軒持つまでになる。そのころ店でよく売れていたのが「ダッチワイフ」。空気を入れて膨らませる、まさにおもちゃのような性具だった。

 当時は女性用に、まだバイブレーターがない時代ですから、肥後ズイキだとか、殿堂のないコケシ、それにちょっとしたリングだとか、つける薬だとか。男性用には空気袋のダッチワイフと、あとスポンジでできたものぐらいがメインだったんです。それから電動ものが出始めて。最初はいまでいうローターみたいなもの、それからコケシ型になったんだけど、ひとの顔をつけて民芸品という形で売ってました。そうじゃないと許可が下りなかったので。いまは秋葉原のアダルトショップとかでも、男性器そのままのモノが売ってるでしょ、びっくりしますよね。昔はそんなの、とんでもないことでした。

 毎日店に出て、接客をしていた土屋さんは、そのうちにあることに気がついた。ビニール風船のような胴体に、漫画チックな顔がついただけ、それでも当時の値段で1~2万円はしたダッチワイフが、よく売れる。売れるけれど、粗悪品が多く、体重がかかるとすぐに空気が漏れたり、破裂したりする。しかもそんなダッチワイフを真剣な顔で求めに来るのは、エロマニアというより、からだに障害を負ったり、伴侶を失ってこころに傷を負ったりして、女性とまともに接することの難しい男性が、思いのほか多かった。そこから、ただの性処理用具ではなく、「かたわらに寄り添い、こころの安らぎを与えてくれるような存在」をつくりだそうという、土屋さんの探求がスタートする。

 浅草でおもちゃやっているときですが、ビニールのダッチワイフ、箱に直接女性の絵が描いてあるだけのようなものが、1万円、2万円なんです。それをぼくはきれいなクラフト用紙に包んだり、自分で『南極』って書いたり、ちょっと違う感じにして高くして売ったら、売れるんですよね、これが。
 でも、そういう1万、2万円の空気人形だけど、それを何回も直しに来るんですね。破裂しちゃうんですよ。もう、のっさわっさ乗っかるから。浮き袋とおんなじように接着するんだけれど、一回破れると接着が弱くなるし……それもあるんだけど、見てくれからが、あまりにひどかったもんで、これはちょっとやってみたいなと思ってね。

 1977(昭和52)年、オリエント工業を興した土屋さんは、顔と胸にソフトビニールを使用し、腰の部分をウレタンで補強、顔、胸、腰以外をビニール製の空気式にした、初めてのオリジナル商品『微笑(ほほえみ)』を発売する。そしてその同じころ、ひとりの研究者との出会いが、土屋さんとオリエント工業のありかたを決定づけることになった。

 そのころ、僕を助けてくれたひとがいたんですね。佐々木という、10歳ぐらい年上で、あまり過去は聞かなかったんですが、京都のほうの生まれで、お医者さんだったんです。彼はいろんな海外で、障害者の性を扱ってたんですね。僕のほうはそれまでおもちゃ的な扱いでいたわけですが、彼はビニールのそういうものでも、違う扱い方をしていたんです。やはり障害者に対する思いっていうのがあって。そのひとにだいぶ影響されましたねえ。
 だから、このショールームも、場所はいまと違いますが、ずいぶん初期から、ショールームではなくて「上野相談室」という名前で開いたんです。僕では相談に乗れないけど、そのひとなら1時間でも2時間でも、性の相談に付き合ってるんですよ。初期のビニール製のものですから、いまのシリコン製と較べれば問題にならないけど、それでもいまのシリコン製を売るのとまったく同じ思いで。

 オリエント工業の上野相談室をさまざまなひとが訪れるようになって、土屋さんはドールを必要とする人間にも、さまざまな動機があることを知るようになった。

 お客さんは、なにも障害者だけじゃないんですよ。性の悩みもいろいろで。あのころはね、奥さんが蒸発……今はもう蒸発なんて言わないけれど、男つくって逃げちゃう。そうするとね、女性不信になっちゃうらしいんです。女性のモノが汚く見えちゃう。それなら風俗行って遊べばいいじゃないかと、我々は簡単に思うけれど、そのひとにしてみれば、女性のモノが汚く見えちゃうんだから。あるいは奥さんが病気で、だんだんセックスが苦手になってきたとか。そうすると、真面目な男性はなかなか発散もできない。あと、障害者の息子を持つお母さんが、やむをえず手で処理してあげていたのが、性欲が強くなってきて、このままでは最後の一線を越えてしまいかねないということで悩み抜いた挙げ句、うちのことを知って駆け込んでくるとか。ほんとに十人十色、いろんなケースがあるので、コンサルティングの過程がすごく大事なんですね。だから、佐々木という人間に出会ってなかったら、僕はいまごろただの、アダルトショップのオヤジでいたかもしれない。

 『微笑』に続いて1982(昭和57)年には手足を取り外せる全身タイプの『面影(おもかげ』、87年には『影身(かげみ)』、92年『影華(えいか)』と、オリエント工業はラテックス製の全身人形を次々と発表していくが、それまで「影」という字が象徴するように、ひっそりと扱われるべき存在で、表情も憂い顔だったり、無表情だったりしたのが、イメージを一新することになるのが97年発表の『華 三姉妹』。素材こそラテックスのままだが、「華」の文字に象徴されるように、それは日常生活のかたわらにあるものとしての明るさ、艶やかさを前面に押し出した新シリーズだった。
 そうした路線変更の背景には、新たな造形師の起用と、96年にアメリカで発表され、世界中で話題になった高級ドール『RealDoll』の存在がある。カリフォルニア州サンマルコスに本拠を置くアビス・クリエイション社が発売した「リアルドール」は、「ハリウッドの特撮技術を最大限に活かした」と銘打ち、皮膚にシリコンを使用した、従来の製品とは次元の異なる触感と完成度を持つドールであり、6千~7千ドルという値段とともに、日本でも大きく報じられることになった。当然ながら、オリエント工業を含めた日本の各社も、シリコン製の新製品を出そうと競って開発を進めることになる。
 
 アメリカからシリコン製のものが入ってきて、びっくりしたんですが、当時はなかなか良質のシリコンが入手できずに、うちもシリコン製の『ジュエル』を2001年に出せるまで、2年ほど開発期間をかけることになりました。
 最初のシリコンが出る前は、顔が全然違うんですね。もともとはマネキンを作っているひとが描いてたんです。シリコンが出る前はソフトビニールですから、素材も全然違いますけど。それがいまの造形師さんになってから、まったく顔の造形、メイクも変わってきたんですね、現代ふうに。
 そして2001年にシリコン第1号が出るわけなんですが、そのちょっと前の1999年に、ソフビで『アリス』というシリーズを出しまして、これが爆発的に売れたんです。ちょうどインターネットが世に出てきたときで、それまでオトナっぽいのがメインだったんですけれど、小さいかわいい感じのアリスっていうのを作って、これが月に100から150くらい、2、3年は売れてた。
 最初はちょっとこわごわというか、抑えてたんですけど、インターネットとリンクした時期というのもあって、いままで(ドールを)必要としていたひとたちとは違う、若い層のお客さんが、性具というより「癒し」みたいなものを求めて買ってくれるようになったんですね。だからお客さん同士のファンクラブとかできたりして。そういうのって、それまでは考えられませんでしたから。
 
 ラブドールを持つことを恥とも秘密とも思わない、そういう新しい層が出てきたことによって、オリエント工業のラインナップは格段に広がることになった。もちろん、お客さんのバラエティも。
 
 お客さんの中には長いあいだ、1体のドールを大切に使ってくれるひともいるし、新しい子が出てくるのが楽しみで、もう10体以上持ってらっしゃる方とか、家中がドールだらけというカリスマ・コレクターもいらっしゃいます。部屋丸ごとを、巨大なドールハウスみたいにしてるひととか。顔と体が取り外せて、顔だけ取り替えられるタイプもあるので、顔だけいくつか持って、使い分けてる方もいるし。でも、特別きれいな顔だから売れるというわけでもないし、外国人のタイプは売れないし。少女のシリーズのなかには、性器部分に穴のあるなしを選べるタイプもあって、性器なしのものを買うひともけっこういますから。そういうのは子供のいない女性や、年配の方たちの「癒し」になってるんでしょうし。ほんとにいろいろなんです。

 ラテックスやソフビやシリコンの肌を持つ人形たちは、もう30年以上にわたってさまざまな思いを、妄想を受け止めてきた。ちなみにオリエント工業では注文を受け、出荷することを「お嫁入り」と呼んでいる。修理や、どうしても持っていられなくなって返品されたものは「里帰り」。そうやって里帰りした人形でも、大事に扱われていたドールと、そうではないドールでは、表情が違って見えるらしい。本家アメリカの「リアルドール」ではありえない、そうした細やかな心遣い、ドールと所有者のコミュニケーション。こんなに日本的な心情が、こんなところで見え隠れしているとは。

 オリエント工業は本社・ショールームを上野に置いているが、製品を作る工場は葛飾区にある。葛飾といえば人形が地場産業。すでに大正時代にはセルロイド工場が、玩具を海外向けに生産輸出していたという。タカラトミー(もともとはタカラ、トミーと葛飾に本社を置く別会社だった)、モンチッチで有名なセキグチなど、名だたるおもちゃメーカーが葛飾区には昔もいまも本拠を置いている。
 工場見学に付き添ってくれた造形師さんによれば、美人をそっくり真似しても、魅力的なドールにはならないという。「人体をそっくり型どりしても、死体になっちゃう。人間の造形美をいいほうにデフォルメしていかないと、欲しいって感じにならないんです。顔の大きさ、肌の色から胸の大きさ、乳首の色まで! ほんとはこんなピンクじゃないけど、『夢の女』ですからね」と笑いながら話してくれたが、それはまったくそのとおりだろう。
 ファッションモデルのようなバランスの人間が、舞台ではまったく映えないように、からだを寄せていっしょに座るソファや、ベッドの上でこそ最高に映える顔が、体がある。そういう、人間のいちばん深い欲望にとことんつきあい、寄り添い、ほかのどこにもない”伴侶”を黙々とつくるひとたちがここにいた。