レーザーカラオケは3分間の人生劇場だった
そもそもカラオケがあるような場所には行かないし、たとえ連れて行かれても、どんなにすすめられても、断固として歌うのを拒否するクールでカタクナなカタカナ人生を送ってきた若者が、中年になっていきなりカラオケにハマり、マイク離さず状態になっ、周囲を唖然とさせる例がよくある。
分別あるはずのオトナから分別を奪い去るカラオケの魅力、それはなにより歌詞の魅力なのだと思う。「別れる前に、お金をちょうだい。そのほうがあなただって、さっぱりするでしょ」なんて美川憲一の心境におのれを重ね合わせられるようになるのは、やっぱりこれから人生下り坂と悟る中年期にさしかかってからのことだろう。
スマホにヘッドフォンで聴くのと、スナックのカウンターで水割り片手に歌うのでは、同じ美川憲一でも、こころに染み入る深度がまるでちがうのは、カラオケ好きならだれでも理解していること。カラオケは歌というものの持つパワーを、別の次元に持っていくためにできた装置なのかもしれない。
20世紀後半は音楽が革命的な転回を遂げた時代だった。エレキギターという、だれでも簡単に巨大な音を出せる機械を得たロック・ミュージックが、それまでの音楽家という専門職を土台から揺るがせた。”楽器が演奏できなくてはならない”という大前提をヒップホップのターンテーブルが、”歌がうまくてはならない”という大前提をラップが破壊し、そして”歌は専門家が歌って聴かせるもの”という基本常識を見事にひっくり返したのが、カラオケという魔法の箱だった。
1971年。ジム・モリスンが死んだその年に、ジョン・レノンが歌った『イマジン』よりも、レッド・ツェッペリンの『ステアウェイ・トゥ・ヘヴン』よりも、大阪の片隅で生まれた「カラオケ」が世界を変えることになろうとは、当時のいったいだれが予想しただろうか。
カラオケ=「空のオーケストラ」はもともと8トラックによるテープ演奏のかたちで1970年代に広まったが、1982年に「絵の出るカラオケ」で革命的な進展を迎えることになった。レーザーディスクによるカラオケの登場である。
LPと同じサイズの、直径30センチのディスクを使用するレーザーディスクは、1978年にアメリカで初めて商品化されたが、「レーザーディスク」という名称がパイオニアの登録商標であることからもわかるように、日本のパイオニアがリードしてきた技術であった。
映像・音声ともに圧縮のかからないデータを記録できることから、画質も音質も現在のDVDより優れたレーザーディスクは、日本ビクターの開発したVHD方式との競争に、圧倒的な不利をはねかえして勝利をおさめ(採用メーカー数ではレーザーディスクがパイオニア1社だったのに、VHD陣営は13社だった)、映画ソフトとカラオケ・ソフトの両方で全国に普及していった。
レーザーカラオケはひとつひとつの曲ごとに作られた映像を伴奏とともに提供する、それまでとはくらべものにならない情報量の詰まった魔法の装置だった。それまでのテープを使ったカラオケでは、歌詞カードや歌本を見ながら歌わなくてはならなかった。それがレーザーディスク時代になって映像と音声を同時に提供できるシステムになって、歌い手は映像と伴奏に自分の声を乗せることで、楽曲の表現する世界に完璧に没入することができたるようになった。自分が歌の世界の主人公になって。
レーザーカラオケの黄金時代は、しかし長く続かない。1992年に登場した通信カラオケは、楽曲の多さと管理の容易さで、あっというまにレーザーの巨大な機械をスナックから追放していった。家庭用カラオケ・ソフトとして細々と生産されていたレーザーディスクも、2007年にすべてのメーカーが生産終了。プレイヤーも現在は一社も製造していない。
いま、カラオケと言えばそれは通信カラオケを指す。ハードディスクに記録された、楽曲とはなんの関係もない環境映像。それがいちじるしく歌う感興を削いでも、もうだれも奇妙とは思わない。
曲ごとに映像と音声が制作されたレーザーカラオケは、その一曲一曲が3分間の短編映画だった。歌の世界を映像で補強する、ヴィジュアル・ランゲージだった。
たった10年間かそこらのうちに、何万曲ものカラオケ楽曲のために何万本もの短編映画が作られて、何万ものロケーションと、何万人もの俳優たちの演技が記録されて、そしてそのすべてが見事に捨て去られて、いまはだれひとり保存しようとすらしない。
もう存在しない、日本各地の貴重な風景が数多く収録されながら、図書館もフィルムセンターも興味を持とうとすらしない。
レーザーカラオケの映像世界、それは僕らの失われた記憶の海なのだ。